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僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 続編
僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 続編
Auteur: いふや坂えみし

第一話

last update Date de publication: 2026-01-30 17:17:46

 僕は高校卒業を間近に控えた二月下旬、父とともに第一志望の聖北学院大学の合格発表へ向かっていた。両親の期待に応えられず私立を志望したことに後ろめたさを感じ、独学で受験勉強を続けてきたが、掲示板に自分の番号を見つけ、深い安堵と喜びを感じた。合格発表の後、入学までの時間を読書に費やし、穏やかな休息を過ごした。四月に入り大学生活が始まると、僕は効率的に単位を取得する計画を立て、広大なキャンパスと自由な校風に解放感を感じていた。僕が心理学科を選んだ理由は、主体性がなく周囲に流されがちな自分を変えたいという切実な願いからだった。

 そんな中、講義でたまたま隣り合った松本雅人からサークル見学に誘われる。松本から誘われたのは、極力目立たずに生きていきたい僕が最も避けるべき「演劇研究会」だった。裏方でもいい、という言葉に押されてしぶしぶ見学を決めた僕は、サークル棟の多目的ホールを訪れる。そこで待っていたのは、リズムに合わせてポーズを変えるストップモーション、腹の底から声を出す発声練習だった。慣れないことに戸惑いながらも、やけくそで取り組むうちに僕の心は不思議と高揚していた。

 休憩後、来月の本番に向けた真剣な稽古を目の当たりにした僕は、演出家の細かい指示やいままであまり聴いてこなかった洋楽、先輩たちの熱量に圧倒される。かつて学校行事で見た演劇には冷めていたが、物語そのものは嫌いではなかったことを思い出した。帰宅後、心地よい疲労感の中で湯船に浸かりながら、僕は「裏方ならやってみてもいいかもしれない」と、これまでの自分なら選ばなかった新しい選択肢に、静かな期待を抱き始めていた。

 僕は迷った末に演劇研究会への入部を決めた。自分でも意外な決断だったが、心理学を学ぶ理由である自分のコントロールという命題が、役の感情を掘り下げる演劇に通じるものがあると感じたからだ。家族の理解も得て、平日の夜遅くまで活動する新しい日常が始まった。大学の授業は一コマ九十分と長く、キリスト教系の大学ならではの必修科目「キリスト教の世界」では、初めて聖書を手に取る。人付き合いが苦手な僕だが、同じ学科の松本(のちにガジンと呼ぶようになった)の存在に助けられ、少しずつ大学生活に馴染んでいった。

 数学の授業では、基礎知識の欠如から全く内容が理解できないという挫折を味わいつつも、放課後は部室という新たな居場所に身を置く。十二畳ほどのフローリングに漫画が並ぶ部室で、背の高い田中先輩や、優しい前田先輩、アニメ声の橋本さんなど、個性豊かな面々と顔見知りになった。最初はジャージ姿の女子部員の存在に目のやり場にも困っていた僕だが、稽古を通じて次第に部内の人間関係も見えてくる。演劇の経験がない僕は、照明助手と大道具の手伝いを割り当てられた。大道具担当の佐々木先輩の指導の下、角材を五寸釘で繋ぎ、ベニヤ板を張って舞台袖の壁を作る作業は、技術家庭科の実践のようで新鮮な驚きに満ちていた。

 ゴールデンウィーク返上の稽古期間、僕は脚本演出のシュン先輩が書いた台本「the end of the world(世界の終わり)」を読み、その完成度に圧倒される。友人の死から始まる後悔と喪失、そして再生を描いた物語は、シリアスとギャグが絶妙に融合した傑作だった。照明操作を担当する「旦那」こと佐藤先輩のもとで、僕はサイドスポットライトの操作という仕事は少ないが重要な役割を担うことになった。

 五月の本番一週間前、舞台監督の山口先輩の指揮で「仕込み」が始まった。照明を吊り、舞台装置を組み立て、暗幕を張る。さらに舞台台を階段状に積んで映画館のような客席を作り上げ、音響台にはミキサーとCDプレーヤーを設置した。多目的ホールは一つの独立した異空間へと変貌していく。舞台上の立ち位置を示す「バミリ」や、暗転中に目印となる「蓄光テープ」の存在など、観客席からは見えない細やかな工夫を知るたびに、僕は作品を創り上げる喜びを実感していった。音響と照明を徐々に変化させる「クロスフェード」などの演劇に携わらなければ知ることもなかっただろう知識も自然に学んでいた。

 そして迎えた本番前夜の「ゲネ(総合リハーサル)」。役者たちはメイクを施し、衣装に身を包む。シュン先輩の「楽しんで」という言葉を合図に、本番と同じ六時四十分、客席の電灯が消えた。サイドスポットの担当としてスタンバイする僕は、待機時間が長いので足が痺れないよう注意を払い、闇の中で蓄光テープを頼りにタイミングを待つ。劇の山場、骨折さんの絶叫に合わせてスイッチを入れる瞬間、緊張したがミスなく仕事を完遂し、客席から見た通しの舞台は、稽古時とは比べものにならないほどの圧倒的な熱量と説得力を持って迫ってきた。

 照明、音響、舞台装置、そして役者の演技。世界を構成する全ての要素が一つの目的に向かって収束し、多目的ホールの空気が一変する。その奇跡のような瞬間を共有しているという実感。ゲネを終えた深夜の静寂の中、僕の心は明日から始まる五公演への期待と、自分がこの世界の一部であるという確かな充実感で満たされていた。

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    百六十「ケンさんとコロさんは今何してるんですか?」「俺は老人ホームで介護の仕事してるよ」「わたしはフリーターだよ」 注文したハンバーガーを待つ間、席について会話が続いていた。理恵の質問に二人が答える。ケンは福祉関係の資格を持っている。だから老人ホームで働いていることに驚きはなかった。ちなみにナベも福祉学部心理学科を卒業しているので福祉系の資格を持っている。「理恵ちゃん、俺には聞かないの?」 ガジンの問いにはナベが代わりに質問を返すことにする。気になっていたからだ。「ガジンはフリーター続けてるんじゃないの?」「そうだよ」「いまはなにやってんの?」「卒業してからずっとインターネットのテクニカルサポート……困ったときの対応をしてるよ」「あ、じゃあみんなおおまかには電話応対の仕事なんだな」 そこで注文したハンバーガーが運ばれてきて、全員で食べ始める。「これからなんだけどさ」 食べながらケンが話し出す。旗揚げの話が始まったな、とナベは居住まいを正した。「まずは旗揚げ公演を目指して脚本を決めようと思うんだよね。で、役者はここにいる五人は出たほうがいいと思うんだよ」「え、でもそしたら……」 ガジンが不安を口にする。ナベも全員が役者をすると音響や照明の操作スタッフが足りていないことに気づいていた。「うん、スタッフやってくれる人を探さないといけないよね。お金で雇う選択肢もあるけど、そんなお金はないから知り合いのつてでなんとか見つけられればいいよね」「既成の台本ではダメなんですか?」 ジュースを飲みながら理恵が尋ねる。「旗揚げ公演だからさ、俺らのカラーを出したいなーって思うんだよ。俺も脚本書いてみるし、コロも書くって言ってる。だから最初は、期限決めてプロット書いて、脚本をきめるところからやりたいなーって思うんだよね」「劇団の名前も決めないとですね」 旗揚げをするなら名前が必要だ。ナベは楽しみで会議の

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    「やあみんな、おはよう」 やってきたのは二年の吉田剛先輩だ。ゴウさんと呼ばれている。ゴウさんは私服がスーツというちょっと変わった人だ。今日もまたスーツとビジネスバッグを持っている。就職活動をしているわけではない。「おはようございます」「ゴウさ〜ん、久しぶりです〜!っていうか、暑くないですか?ネクタイ締めて」 裕子ちゃんの指摘通り、ゴウさんはきっちりネクタイを締めている。「ん?うん、夏だからジャケットは着てないからね。平気だよ」「ブレないですね」 僕がそう言うとゴウさんは少し遠い目をした。「北海道は暑くないよ」「あれ、ゴウさんってずっと北海道じゃないんですか?」 裕子ちゃん

  • 僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 続編   第四話

    「おっはよー!」 元気よく現れたのは橋本さんだった。いつものように笑顔で挨拶してくれる。「……おー、久しぶり」 僕もいつものようにおもしろみのない気の利かないことしか口から出てこない。「よかった。一人だったらどうしようと思ってたとこだよ。ナベ、成績どうだった?」 ガタンと椅子を鳴らして橋本さんは座る。洗剤の匂いなのか香水なのかわからないが、花のような香りが鼻をくすぐる。「数学は落としたけど、他は単位取れたよ。えぇと、裕子ちゃんは?」 人を苗字ではなく名前で呼ぶのはまだ慣れない。読んでいた漫画を閉じて机に置く。「私はねー、だいたい単位取れたけど何個かだめだったよ。ナベはすごいね

  • 僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 続編   登場人物

    ( )内はあだ名。渡辺浩二(ナベ) 主人公。大学一年生。松本雅人(ガジン) 大学一年生。橋本裕子(裕子) 大学一年生。池田理恵(理恵) 大学一年生。岡田瞳(瞳) 大学一年生。清水智子(みずとも) 大学一年生。中島麻美(麻美) 大学二年生。林由美(由美) 大学二年生。加藤俊輔(シュン) 大学四年生。中村雄介(ブラザー) 大学四年生。山本慎吾(ポリス) 大学四年生。

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